言葉はいつも遅れてやってくる(79日目 2024/09/24)

言葉にできる、ってことは、形式化、様式化されたってことだから、つまり過去のこと。遅れてやってくるものなのだ。言葉になっている時点で、過去に経験したことのなかからひっぱりだして、反応しているに過ぎないんだと思う。
牧野彰邦 2024.09.24
誰でも

さて、今日も書いていこう。

先日、とある美術展を見に行った。この美術展に行ったきっかけは、事務所近くのマクドナルドでコーヒーを飲みながら仕事していたところ、隣に座ったおばあさまが、新聞の切り抜きをたくさん持っていて、その全てが書評らしく、珍しいなと思っていたら、その一冊が千葉雅也の『センスの哲学』だったので思わず話しかけたところ、趣味が重なり話が続き、そんな彼女が「最近面白い美術展に行った」とのことで教えてくれた美術展ということだ。

島袋道浩という人のアート展で、パフォーマンスアートだった。たとえば、明石で釣ったタコに東京見物をさせるというものだったり。ポリ袋みたいのに海水に入れて、そこにタコをいれて、新幹線に一緒にのって、車窓から「富士山だよ」とかいって一緒に富士山を眺めたり、築地に連れてって、東京のタコと面談させるみたいなことをして、最終的にまた明石の海に返す、という映像作品とかの展示だった。

他にも、キューバの工場を訪れたときに、工場がぼろくて、雨漏りしているのをみて、そこに空き缶を置いてみたらいい音がして、これは音楽だなってことで、それを撮影し、さらにあートリンゼイにその音とセッションさせたり、みたいなことだったり。

これはつまりYoutuberだな、って思った。

そういうのをみてから、自分の頭のなかもそっちのほうに引っ張られたりして、ものづくりというか、視点をかえるみたいなことを考え始めた。

最近よく思うこととして、やっぱりフレームが大事だと思っていて、自分のなかにいろんなフレームがあると、人生をもっとたのしい時間でいっぱいにできるのかもしれない。

一番ほしいフレームはうちの子供達のフレーム。7歳と2歳のフレーム。このフレームを、自分のなかにがっちゃんとはめてみれば、怒ることがなくなって、一緒にたのしいんだろうなって思う。

僕は僕のフレームしかなくて、しかもそのフレームのなかで一生懸命に生きようとすればするほど、ただしさみたいなのが生まれてきて、他のフレームとは相入れなくなって、理解できなかったり、効率悪いとか思ったり、不合理だと思ったり、怒ったりイライラしたり心配になったりするんだと思う。

結局、今の僕が持っているフレームの中でああだこうだ一生懸命やればやるほど、生きづらくなる気がする。

そのフレームのことを、習慣という言葉で表現することもできる。思考パターンみたいなものだ。

思考パターンっていうのは、過去の集積にすぎなくて、それを言語処理にまで落とした状態なんじゃないかと思う。はじめに言葉ありき、だから。言語化して、そこに世界として立ち上がってくる。ビルドされる。

言葉にできる、ってことは、形式化、様式化されたってことだから、つまり過去のこと。遅れてやってくるものなのだ。言葉になっている時点で、過去に経験したことのなかからひっぱりだして、反応しているに過ぎないんだと思う。あ、これは以前のあれと一緒だから、悲しいってことだな、くらいの反応だ。

だから、感情なんてのも、言語とひもづいていて、「リアルに感じている」ってよりも、オートマティックにプロセスが組まれていて、過去のリファレンスから参照して表層化しているのがほとんどだと思う。言語にハックされているってこと。気をつけないと、感情=自分なんてなってしまって、それが行きすぎると、「こんなこともできない俺なんて、ダメなやつだ、死んだ方がいい」みたいになるんだと思う。

ハックされているなら、それを逆手にとって、「うれしい」「しあわあせ」と逐一言葉にしていれば、声に出していれば、逆行して「うれしい気持ち」「幸せな気持ち」に感情がハックされていく。こちらから感情を乗っ取ってやればいい。

そんな程度のものなのかもしれない。

だから、言葉はいつも遅れてやってくる。言葉以前のものが自分のなかにあって、それこそが、いまの自分のなかでホットなものなんだろうけど、それに名前をつけはじめ、言葉をあたえはじめることで、それを何度も取り出しやすくしたのが、言語化された感情、なんじゃないだろうか。

うちの子供に「今思っていることを言って」と求めたりするけれど、なんて言っていいかわかない、ということがよくある。だから子供は素直なんだと思う。大事なものを見失ったりしない。

言葉にすることで、いろいろなことが始まる。天地創造が始まるのだ。けれど、言葉はいつも遅れてやってくる、ということを自覚しておかないと、言葉に支配されてしまう。言葉にできるものだけで、未来をつくろうとすると、過去にしばられた生き方しかできないんだと思う。知っているものだけで構築された未来。

フレームはずっと新しくなっていかないし、習慣も刷新することはできない。濃度がどんどん濃くなり、近親相姦のようになっていく。自分でつくったものだけで、自分を刷新することはできない。できるのはただの確認作業だと思う。言葉にできた時点で、「これってこういうことだよね」という確認作業なのだ。それは物語でもあり、意味と安心を得ることができる。

名前のついていない感情に安心することはできないだろ、ということだ。安心するとは、意味がわかる、見出すってことだ。だから言葉が必要になる。けれど、意味の世界を抜け出して、他者と交わって、生きることへの喜びのまっただなかにいたいのであれば、言葉は置いてこないといけない。

なんか、そういうものをつくりたい。

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